幻想小説
『すずめの戸締り』というアニメ作品が公開中だが、「扉」というモチーフはいろいろな作品に登場する。『夏への扉』、『2001年宇宙のオデッセイ』、「ドラえもん」の「どこでもドア」などは良く知られている。
じつは、「扉」というのは本質的ではない。だから「門」を考えよう。門についているのが「門扉」である。
ファンタジーのお約束では、門の向こう側は「異界」であり、それがただ一つの扉だというのがお約束になっている。これを破った作品が星新一さんの『おーい、でてこーい』だ。
ここで思考実験。天井と床に対になる「門」をつけて(じつは門の表側と裏側だから、門はひとつ)、床の門に物を落とすと、その物体は永遠に落ちつづけて永久機関ができる。これを使って妖怪を倒すというネタが「零能者ミナト」にもあった。
ただ、そうなるとエネルギー保存則に綻びができてしまうので、門は等ポテンシャル面上で平行に立っていてくれないと困る。とはいえこれでも角運動量の保存則に引っかかりそうなのだが、「マッハのバケツ」という思考実験があるので、「実は宇宙全体は回転しているのだが、外側に何もないから『何に対して開店しているか』がわからいので観測に引っかからない」という話にもなる。
さて。脳内出血を起こした人が自分の家の中で迷った、という話がある。そんなわけで、深い森かなんかの中で空間がねじくれていて門の役割を果たす、というのは話としてはありそうで、「八幡の藪知らず」なんかのイメージはこれだろう。じっさい、夢の中で道に迷うひとは普通にある。実話系怪談でも、階段を上ったはずなのにもといた階に出てしまう、というネタは多い。
存在論的な立場と認識論的な立場というのは普通は対立するのだが、最近は哲学も物理学もコンピュータも進歩しているので、タイムスリップなんかも含めてメタバース空間では適当にどうにかするとなんとかなってしまう。つまり、「(ゲームを含む)幻想文学は門の文学である」ともいえる。『異世界居酒屋のぶ』なんかは、このアレンジの一つとも考えられる。『ダンジョン飯』もそうだし、アニメの『君の名は。』もそうだ。古くは広瀬正『マイナス・ゼロ』もそうだし『大江戸神仙伝』もそうだ。
こうなると、幻想文学(ファンタジー)というのは一つのネタを延々やっているだけ、みたいな、やる気をなくす文学になってしまう。『小鬼の居留地』や『妻という魔女たち』はヒネリが目新しいだけで、多重人格ものだってこの一種といえなくもない。大東亜戦争の記録や昔のテレビ時代劇はたいていモノクロなので、うっかり昔は世界はモノクロだったような気はしてしまうが、千年前でも椿の葉は緑色で花は赤かった。
大衆文学として売れるか売れないかの問題は置いておいて、幻想文学というのは「哲学的思考実験」であり、それをどんなふうに文藝的世界に着地させるかだ。妙に高尚な感じはするが、能だって歌舞伎だって古典落語だって同じことをやっているわけだから、難しくはあるが不可能ではない。で、それを大掛かりにやるのが劇場版アニメで、問題はその思考実験的な世界観の辻褄をどう(どの程度)合わせるかという話になると思う。
パイロットさんによれば、「着地がいちばん難しい」のだそうだ。ファンタジー文学作品は飛行機であるらしい。
じつは、「扉」というのは本質的ではない。だから「門」を考えよう。門についているのが「門扉」である。
ファンタジーのお約束では、門の向こう側は「異界」であり、それがただ一つの扉だというのがお約束になっている。これを破った作品が星新一さんの『おーい、でてこーい』だ。
ここで思考実験。天井と床に対になる「門」をつけて(じつは門の表側と裏側だから、門はひとつ)、床の門に物を落とすと、その物体は永遠に落ちつづけて永久機関ができる。これを使って妖怪を倒すというネタが「零能者ミナト」にもあった。
ただ、そうなるとエネルギー保存則に綻びができてしまうので、門は等ポテンシャル面上で平行に立っていてくれないと困る。とはいえこれでも角運動量の保存則に引っかかりそうなのだが、「マッハのバケツ」という思考実験があるので、「実は宇宙全体は回転しているのだが、外側に何もないから『何に対して開店しているか』がわからいので観測に引っかからない」という話にもなる。
さて。脳内出血を起こした人が自分の家の中で迷った、という話がある。そんなわけで、深い森かなんかの中で空間がねじくれていて門の役割を果たす、というのは話としてはありそうで、「八幡の藪知らず」なんかのイメージはこれだろう。じっさい、夢の中で道に迷うひとは普通にある。実話系怪談でも、階段を上ったはずなのにもといた階に出てしまう、というネタは多い。
存在論的な立場と認識論的な立場というのは普通は対立するのだが、最近は哲学も物理学もコンピュータも進歩しているので、タイムスリップなんかも含めてメタバース空間では適当にどうにかするとなんとかなってしまう。つまり、「(ゲームを含む)幻想文学は門の文学である」ともいえる。『異世界居酒屋のぶ』なんかは、このアレンジの一つとも考えられる。『ダンジョン飯』もそうだし、アニメの『君の名は。』もそうだ。古くは広瀬正『マイナス・ゼロ』もそうだし『大江戸神仙伝』もそうだ。
こうなると、幻想文学(ファンタジー)というのは一つのネタを延々やっているだけ、みたいな、やる気をなくす文学になってしまう。『小鬼の居留地』や『妻という魔女たち』はヒネリが目新しいだけで、多重人格ものだってこの一種といえなくもない。大東亜戦争の記録や昔のテレビ時代劇はたいていモノクロなので、うっかり昔は世界はモノクロだったような気はしてしまうが、千年前でも椿の葉は緑色で花は赤かった。
大衆文学として売れるか売れないかの問題は置いておいて、幻想文学というのは「哲学的思考実験」であり、それをどんなふうに文藝的世界に着地させるかだ。妙に高尚な感じはするが、能だって歌舞伎だって古典落語だって同じことをやっているわけだから、難しくはあるが不可能ではない。で、それを大掛かりにやるのが劇場版アニメで、問題はその思考実験的な世界観の辻褄をどう(どの程度)合わせるかという話になると思う。
パイロットさんによれば、「着地がいちばん難しい」のだそうだ。ファンタジー文学作品は飛行機であるらしい。
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